実戦というファンタジー、あるいはファンタジーとしての実戦について②

”最先端の総合武道”空道 大道塾 三鷹同好会/Team Tiger Hawk Tokyoの小野です。

前回から「実戦」について考えてみています。

「実戦」とは「現実」とは一致しえないファンタジーなのだ、という話でした。

追求してもたどり着けない上に、技術的な発展の妨げになることさえあるのではと。

空道の技術体系で言えば「実戦を考えて、頭突きと金的蹴りだけ練習しよう」とかなるとどうかな、ということですね。

競技に勝つことを考えたら、もっといろいろ幅が広がるでしょう、と。

一方で「競技」化が進めばどうしても「ルール内で勝てばいい」という発想も生まれてくるところもあります。

武道/格闘技が、他者を制圧し、絶命させることを究極の目的として生まれてきたことは、大前提として考えておかなければいけないと思っています。

どんなに洗練された技術であっても、もともとは殺し合いの術なのです。

例えば、ボクシングの試合中にゴングが鳴ったと勘違いしてコーナーに戻ろうと相手に背を向けた瞬間にパンチをもらってKO、なんていうニュースを観たことがありますが、そういう発想はNGではないか、ということです。

ルールやレフェリーは、競技にとって欠かせない存在ですが、それに自身の生命を預けてはいけません。

あるいは、空手などの試合において、わざとスリップダウンする、あるいは胴回し回転蹴りなどの捨て身技を「かけ逃げ」して時間稼ぎ、という場面にも同じことが言えます。

ルール上は許されていたとしても、それは「実戦」想定ではありえない動きです。

打撃競技において、ダウンが勝敗を決める基準となるのは、とどめを刺せる状態になる=絶命させうるからなのですから、ダメージがないのにわざわざその状態に身を置くことは、ルールに寄りかかった行為だと言えるでしょう。

また、例えば柔術ではルール上「引き込み」が多く使われることもあります。

柔道でも、寝技が強い選手が、自ら下になって攻めることはよくあります。

しかしながら、引き込んでいわゆる「ガードポジション」に身を置くことは、いくら相手をコントロールできる技術があったとしても、「実戦」局面では相当な勇気のいる戦術ではないでしょうか?

現代MMAでも、大原則はトップポジションを取ることを優先させていることでもわかりますし、柔術を世界的な競技にしたグレイシー一族は、黎明期のMMAで必ず上から押さえて殴り、そこからチョークや腕十字というシナリオを徹底していました。

また、金的の急所を相手にわざわざ向ける必要もないですし、複数人の敵と闘うときに1人を引き込んだら...結末は目に見えていますよね。

参考までですが、空道のルールにおいて寝技が30秒に制限されているのは、「実戦」において延々と寝技の攻防が続くことは考えにくいとの発想によります。

誰かが止めに入る、敵が複数なら攻撃される可能性がある、というわけです。

念のためですが、柔術の技術や戦術を否定するつもりは微塵もありません

前回で触れましたが、ルールを整備したことによる技術の「民主化」の、もっとも成功している例が柔術だと思っています。

そして、先のグレイシー一族の例でもわかるように、柔術はそもそもスポーツ性やゲーム性ではなく、「強さ」をもって世に存在を示したのでした。

ただ、その技術すべてが「実戦」において使えない局面は必ずあるということを意識しておいてもいいかなと思います。

具体的には、練習の際に下からばかりの攻撃パターンに偏らない、くらいの意識は持っておきたいですね。

寝技に限らず、ルールを取っ払ってもこの技術は使えるかな? という思考実験をしながら練習することが大事なのかなと思っています。

打撃でも、マスボクシングならできるけど、相手が差し違えるくらいの覚悟で突っ込んできたら使えなくなるような技術ばかりに走っちゃダメですよ、と。

一撃で「倒せる」武器は、常に磨いておきたいところです。

時代小説からの受け売りですが、戦(実戦)のなかった江戸時代に、様々な剣術の技術は発展したと考えられます(流派とか秘伝とかの関係で、横方向に拡張したかはよくわかりませんが)。

しかし幕末の、まさに「現実の闘争」が増える場面においては、新選組の取った「先手を取ることと、1対複数を作る」戦術が有効だったと言えるようですし、勢いで相手を飲み込んで一太刀を先に入れる示現流の技術体系は、現代の競技としての剣道においては通じないでしょうが、結果として「実戦」向きだったとも言えます。

現代においても、先手を取って強い攻撃を仕掛けたほうが勝つ試合は、どの格闘競技でも見受けられるのも事実ですよね。

その意味では競技として考えても、「実戦」向きのシンプルな攻撃パターンを持っておくことは損にはならないと思います。

ファンタジーが芸術や人間の感性を育むのに必要なように、武道/格闘技の技術体系を考える上で「実戦」というファンタジーが必要となる理由です。

...ちょっとこじつけかもしれませんが(笑)。

(^_^;)

まとめ。

「実戦」は、追い求めてもいけないが、忘れてもいけません。

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