実戦というファンタジー、あるいはファンタジーとしての実戦について①

”最先端の総合武道”空道 大道塾 三鷹同好会/Team Tiger Hawk Tokyoの小野です。

さて、今回から「考」カテゴリーも始めてみます。

1つめは武道・格闘技を考える上では避けて通れないテーマ「実戦」について。

「実戦」とは、たどり着けないファンタジーなんだけど、同時に、武道/格闘技を志す人間は忘れてはいけないよね、という話です。

小野の所属する大道塾と、空道という競技は「実戦性」と「安全性」を兼ね備えていると言われますし、団体としてもその点を強調しています。

詳しくは三鷹同好会サイト「空道とは」をご参照ください。

さて、ここで言う「実戦」って何でしょうか?

現実の闘争を想定」していると、全日本空道連盟の公式サイトには表記されています。

...怒られちゃうかもしれませんが、それって平たく言うと「ケンカ」のことですね(笑)。

大っぴらに「ケンカを想定してます」とは言えませんが、ルールに守られていないシチュエーションを考えて作られた技術体系だということを「実戦」的と表現しているわけです。

よって、突き蹴り投げ、更には寝技や頭突き、金的攻撃も認めて、技術的な制約を極力少なくしたルールとしています。

もちろん、防具などで安全性も確保した上でのことですが。

歴史をさかのぼると、大道塾の源流でもある極真会館も、従来の伝統派空手よりも「実戦」的な「ケンカ空手」として存在意義を高めたことは、格闘技ファンの方々ならよく知っている通りです。

「実戦」=「ケンカ」とした場合、具体的にどんな状況を指すのか考えてみます。

試合時間はもちろん決まっていません。

それ以前に、どのように勝敗を決めるかも解りません。

対戦相手は1人なのか複数なのか、体格、素手か何らかの武器を持っているのか。

反則もありませんが、現実の社会においてすべて許されるわけではありません。

...などなど。

未確定な条件がたくさんあるわけです。

つまり「実戦」というのは、「これが実戦なんですよ」と厳密に定義することが不可能な概念だとも言えます。

逆説的な言い回しになりますが「実戦」とは「現実」のように見えても実は「想像上のもの」と言えるわけです。

そのことを、本稿では「ファンタジー」と表現しています。

「実戦」を追求することのデメリット

極真空手や大道塾以外にも、現代において「実戦」を謳う武道/格闘技は、メインストリームとは言えないまでも、一定数存在します。

特定の団体や流派への攻撃的な意図はまったくありませんので、具体的に名前を挙げることはしませんが、その中でも発想は大きく2つに分かれているようです。

ひとつは、競技だけどもルール上の制限を極力減らすことで「実戦」に近づけようという発想。空道以上に制約を少なくしたり、安全性を低下させたルールを導入している大会などです。

もうひとつは競技にしないという発想です。これは大雑把にまとめると「武術」系の団体/流派など。

順番に考えてみましょう。

まず、ノールールに近い試合や技術体系をいくら作っても、それは「実戦」にはたどり着きません

ファンタジーに直に触れることは、原理的に不可能だからです。

ノールールを突き詰めれば、極論すると毒殺したら勝ちでもいいはず、とかなります。

それじゃ何のために武道/格闘技を志しているのかわかりません。

そこまでいかなくても、競技化するためにはどのように勝敗をつけるのかを決め、何らかの公平性(試合時間や場所など)を導入することは避けられない以上は、「疑似実戦」であることも避けられません。

しかも、ノールール的なルール(変な言い方ですが)では、その場で勝つためにシンプルな技術のみ使われやすいとも考えられます。

それも「実戦」の正しい側面だという発見はありますし、次回で触れるように、常に意識しておく必要はあります。

それでも、技術の幅を広げ、そのレベルを向上させることは、武道/格闘技の存在価値だと考える立場からは、マイナス要素も大きいと思います。

同じように、安全性を低下させることは、技術の「民主化」を妨害することになります。

例えばボクシングがナックルパート(拳の前面)のみ使用できる制限を作ったことで、パンチ技術は飛躍的に発展したはずです。

また、グラブを着用することで、その技術を(比較的)安全に、誰もが身につけていくことを可能にしました。

結果、現代MMAにもボクシングのテクニックは活かされてます。

「実戦」から遠ざかることにより、技の進化と有効性を高めていると言えるでしょう。

もうひとつの、競技化を否定する発想についても、やはり技術的な発展を阻害するという側面があります。

この点については、さまざまな意見はあると思いますが、小野は「武道/格闘技を誰でも触れるところに置く」ことを基準として考えています。

傑出した誰かが至高の位置にたどり着く発想も否定はしませんが、小野は違う考えです。

武道/格闘技によって、人生が楽しくなる、幸せになる人が増えればいいと思っています。

みんなができる「競技」にすることにより、技術の創出は進むと考えられます。

柔術では、今でも新しいテクニックが日々生まれては、SNSを通じて世界中に広まり、共有されていますよね。

それは江戸時代までの日本にしかなかった柔術ではできなかったことでしょう。

ブラジルで進化し、世界中に広まったことで可能になりました。

「みんなができること」により、カルチャーとしての価値を高めていると思います。

その価値とは、様々な技術を創出し共有することで、身体操作の可能性を拡張することです。

平たく言えば「みんなで技を競い合っていると、うまく身体を使えるひとが出てきて、みんなでそれをマネしているうちに、使えるひとが増えていく」みたいな感じが理想かなと。

競技化を否定することは、武道/格闘技が持っている価値を、結果として損なうことにもつながるのではと思います。

これが「実戦」というファンタジーを追求することのマイナス面です。

次回、でも悪いことばかりでもないですよ、という話に続く。

タイトルとURLをコピーしました